++ 夏の幻想曲 ++
＜１＞
照り返す太陽の光が眩しい八月のある日、珍しくバイトが休みの桃矢の元に雪兎は訪ねていた。
馴染みの店で購入したケーキと、桜が入れてくれたアイスティーを傍らに置き、二人は大量にある夏休みの宿題を片付けていた。
「お兄ちゃん、この前撮ったチアリーディング大会の写真って何処にあるの？」
大きなアルバムを抱えて、桜は桃矢の横にチョコンと座った。
「ああ、あれならそこの引き出しの中に入れて置いたぞ」
動かしていた手を休め、食器棚の方を指差した。
そのやり取りを見ていた雪兎は、桜の方に顔を向けてニコリと微笑んだ。
「それ、さくらちゃんのアルバム？」
「はっはい！写真の整理をしようと思って」
ほんのりと頬を赤く染めながら、桜はアルバムを雪兎に差し出した。
「見ても…いいの？」
キョトンとした表情を見せる雪兎に、コクリと頷いた。
「ありがとう、さくらちゃん」
「あっあの、良かったらお兄ちゃんのアルバムも持ってきましょうか？」
おずおずと桃矢の様子を覗いながら、雪兎に視線を移した。
「本当！？見せてもらって良いの？」
「はいっ、今持ってきますね！」
そう言って階段を駆け上がっていく桜を見送ると、雪兎は桃矢を覗きこんだ。
桃矢は表情を変えることなくペンを走らせている。
「見て…欲しくない？」
「いいや…でも、大して面白くもないぞ」
ようやく顔を上げた桃矢は、ほんの少し照れているようで、雪兎は思わず“可愛い”と思ってしまう。
「いいよ、僕は僕の知らない頃のとーやを見てみたかっただけだから」
はにかんで答えると、桃矢も目を細めて笑顔を返してくれた。
「雪兎さん、はいっ、これです」
二階から降りてきた桜は、自分のアルバムと色違いのそれを雪兎に差し出した。
「ありがとう、見せてもらうね」
手にしたアルバムをゆっくりと開くと、そこには産まれたばかりの桃矢が母親の撫子に抱かれた写真が貼られていた。
「わぁ！とーや可愛いねー！！」
ニコニコと微笑みながらページをめくる姿に、桃矢も手を休めてそんな様子を眺めていた。
「あっ！」
急に声を出した雪兎に、我に返った桃矢も「何なんだ？」とアルバムを覗きこんだ。
「これ、とーやが今のさくらちゃんと同じくらいの頃かな？」
示された写真を見ると、そこには浜辺ではしゃぐ桃矢と桜の姿が写っていた。
「ああ、そうだな。母さんが亡くなって、やっと元気が出てきた頃、父さんが海に連れて行ってくれたんだ」
目を細めて当時を懐かしそうに思い出している桃矢の後に、桜が言葉を続ける。
「お兄ちゃん、私がお山を作っていたのに、どんどん水かけて壊しちゃったんだよ！ヒドイでしょ！？」
「そういや…あの頃から泣き虫で怒りん坊の怪獣だったよなー」
「お兄ちゃん！！！」
桜は、頬をプクーっと膨らませて桃矢に食って掛かっていた。
「あはは、でも良い思い出なんだね。二人とも凄く良い笑顔しているもの」
そう口にした途端、胸の奥に小さな悲しみが沸いてきて、一瞬…雪兎は表情を曇らせた。
その瞬間を、桃矢は見逃さなかった
―どうした？
聞こうとしたが、あまりに一瞬の出来事に口を挟むタイミングを失ってしまった。
木之本家で夕食を済ませた雪兎は、ひとり家路に向かっていた。
桃矢が「送っていく」と言ってくれたが、やんわりと断った。
無論、桃矢は諦めきれない表情をしていたけど…何故か一人になりたい気分だった。
あの時感じた胸の痛み……
「思い出…」
気が付くと、その言葉を口にしていた。
雪兎の思い出は、桃矢と出会った高校一年の冬からしか存在しない。
今はもう、決してその事に不満がある訳では無いのだが、時々…自分は作られた存在だと実感して涙が出そうになる。
何だか無性に喉の渇きを覚えて、雪兎は道沿いにある自動販売機でジュースを買うと帰路を急いだ。
まるで…追いかけてくる満月を振り切るかのように……
窓から差し込む朝の光に目を覚ました雪兎は、手探りで時計を引き寄せた。
「八時半…そろそろ起きないと…」
緩々と体を起こしながら、自分の体に妙な違和感を覚えた。
体にピッタリと合っていたパジャマはダボダボだし、見慣れた部屋も何だかいつもと視界が違う。
何よりも、メガネをかけていないのに、周りが鮮明に見えてくるのだ。
「どう言う…事？」
慌てて布団から飛び出し、大きなパジャマを引きずりながら部屋の隅にある姿見の前に立った。
「えっ！？」
言葉が出てこない…ここに居るのは確かに『月城雪兎』本人なのに、鏡に映っているその姿はどう考えても十歳前後の少年だった。
呆然と鏡の少年を見つめながら、頭の中はパニック状態で焦っていた。
「とーや…とーや…助けて……」
雪兎にとって何よりも側に居て欲しい相手を思い出し、慌てて受話器に手をかけた。
「とーや…お願い…出てっ！」
祈るような気持ちでコールを数回聞くと、聞き慣れた声が耳に響いた。
『はい、木之本です』
「とーや？僕だけど…」
『え？』
聞き慣れない済んだ高い声に、桃矢は首を傾げた。
「僕…雪兎だよっ。とーや…助けて、お願い…」
『えっ、ええ！？ゆきっ？一体どうしたんだよその声は』
「声？あっ…声まで変わって…そっそう、大変なんだってば…僕、何か知らない間に小さくなちゃったみたいで…」
次第に小さくなっていく声に桃矢も尋常でないと察し、雪兎を何とか落ち着かせようとした。
『ゆき、落ち着いて聞けよ。一体何が起きたんだ？』
「わかんない…朝起きたらパジャマもブカブカになっていて…」
信じて貰えているのか段々不安になってくる。
考えて見れば当たり前だ。
朝からいきなりこんな話を切り出され、信じてもらおうと思う方がおかしいのだ。
どうしよう、どうしたら…不安な気持ちの雪兎をよそに、桃矢は優しい言葉を投げかけた。
『ゆき、いいか？家で大人しく待ってろ。今すぐそっちに向かうから』
「うん、ありがと…」
一気に力が抜けてしまった為か、雪兎は受話器を置いて、そのまま座り込んでしまった。
受話器を置いた桃矢は、すぐに二階の桜の部屋に向かった。
桜は今日から三日間、林間学校に出かけているが、もう一人…いや一匹？の主が部屋にいる筈だ。
「おい、ケルベロス！」
部屋に入るなり、主を探す。
「なんやー、やかましいなぁ…」
桜の机の引き出しから、小さなヌイグルミ姿のケルベロスが眠そうな目をりながら顔を出した。
「兄ちゃんかぁ、朝からどないしたんや？？」
「ゆきが大変な事になっているらしい」
「雪うさぎが？」
コクリと頷くとケルベロスを引き出しから引っ張り出した。
「一緒に来て欲しい。俺には魔力を感じる事が出来ないからな…」
暫く考え込んでいたケルベロスは、ふわりと宙に浮き、桃矢を見た。
「分かった、わいも雪うさぎの所に行く。その代わり…」
「その代わり？なんだ」
桃矢は訝しげにケルベロスを睨みつけた。
「今度、兄ちゃんお手製のお好み焼きが食べたいんやけど」
あまりに能天気なケルベロスに、がっくりと肩を落とし大きな溜息をひとつ吐いた。
「分かった、約束する」
「ホンマ！？よっしゃあー！！ほな、行こか」
上機嫌で部屋を出るケルベロスの後ろ姿を見ながら、桃矢は頼る相手を間違えてしまったのかも知れないと、頭を痛めた。
呼び鈴を押して間もなく玄関の扉が開き、中から小さくなった雪兎がそぉっと顔を覗かせた。
「とーや！！」
「ゆ…き？本当にゆきか？」
小さく頷く雪兎をぎゅっと抱き締めて、そのまま室内に入って行った。
「ホンマ驚いた！これが雪うさぎやとは…」
目をパチクリさせるケルベロスに、雪兎は申し訳なさそうにいた。
「ユエには戻れへんのか？」
「多分…戻れるなら、とっくに戻って君の所に行っていると思うし…」
溜息を吐くケルベロスに、桃矢は質問を投げかけた。
「で…どうなんだ。何か感じるか？」
「ああ、ほんの少しやけどソコから魔力を感じる」
ケルベロスは机に置かれたジュースの空き缶を指差した。
「それ、昨日とーやの家から帰る途中に買ったんだけど…別に変な味とかしなかったよ」
「ほんの僅かな魔力やから、普通は誰も気づかへんのや」
「じゃ、元に戻る方法は分かるか？」
桃矢は重い口を開いてケルベロスに聞いた。
「それは……分からんっ」
明るく答えるケルベロスに、桃矢は露骨に不機嫌な表情を見せた。
「せやけど、大した魔力やなさそうやし、自然と元に戻るんちゃうか？」
「『ちゃうか？』ったってなぁ！」
頭を抱え込む桃矢に目もくれず、自慢げなポーズを取りながら言葉を続けた。
「まぁ、今日明日は桜も、お父はんもおらんことやし…ゆっくりと雪うさぎの相手をしたりー」
ケルベロスは二人を残して、さっさと帰ってしまった。
「行っちゃったね…」
「ああ、ったく何の為に連れてきたんだか分かりゃしねえ」
大きく溜息を零すと、ゆっくりと雪兎に視線を移した。
琥珀色の大きな瞳に透き通るようなプラチナの髪、優しい眼差しは変わらず雪兎のものだが…
何かが違う。
体が小さくなったとか、そんな外見的な事ではなくて内面からくる何かが違うのだ。
桃矢は暫く腕組みをしたまま思考を巡らせて、ふと気がついた。
「分かった」
「えっ？」
瞳を大きく開いて桃矢を覗き込む姿にドキリと胸を高鳴らした。
「あっ、いや…元に戻る方法が見つかった訳じゃなくて」
「あ…うん」
雪兎の瞳が曇り、オロオロとうろたえながら言葉を続けた。
「俺さ、力は無くなったけど、お前の中の『ユエ』は僅かながらも感じる事が出来るんだ」
「うん」
「それが今は何も感じない。と言う事は、少なくとも今のゆきは純粋な十歳の少年なんだよ」
「あっ…」
雪兎の戸惑いつつも顔をほころばせる姿に自分の言った事が理解できたのだろうと納得して彼の頭をクシャクシャと撫でた。
「今の状況が決して良いとは思えないけどさ、取りあえずケルベロスが言っていたように、お前に付き合うよ」
「うん…ありがと、とーや」
照れ笑いを浮かべる雪兎は、どうしようもない程に可愛くて桃矢の心を乱れさせた。
―何考えているんだ俺は！！
必死で理性を取り戻しながら、桃矢は持ってきた荷物の中から服を一着取り出すと雪兎に渡した。
「これ…」
「俺のお古で悪いけど…納戸から引っ張り出してきた。今ある服じゃ体に合わねえだろ？」
「とーやの服？」
「ああ、子どもの頃着ていたんだよ。何故かウチは物持ちが良くってさ」
頭を掻きながら立ち上がると、大きく伸びをして部屋のドアに向かった。
「朝食まだだろ？何か作ってくるから早く着替えろよ」
そのままの格好じゃ、俺の理性も危うくなるからな……
心の中で呟きながら、部屋を後にした。
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