唇
「ここで…？」
耳元で囁かれて、くすぐったい震えが背中を走ってゆく。手を伸ばして髪に触れると、ひやりと冷たい雫が滴って落ちた。
「寒いのに…風邪ひいちゃうよ。」
「構うもんか。ゆき。いいか？」
誘われて、雪兎は戸惑ったように辺りを見回した。狭い事務室の中は小さなスツールしかないし、花で埋もれた店の中は素通しのシャッター越しに、表通りから丸見えなのだ。
桃矢は雪兎の迷いにはお構いなしで、口付けを繰り返す。両手がフリースのジャケットのファスナーを下ろしにかかって、うろたえた雪兎の手がそれを留めようとする。桃矢は煩わしそうにその両手を押さえ込むと、空いた片手をジャケットの奥、柔らかなセーターの中に忍び込ませる。
素肌を探られて、雪兎がちいさく声をあげた。
「待って、とーや。…人が…」
「待てない。照明、全部落としちまえば外からは見えねえよ。」
「とーや！」
逃れようとする雪兎の体をきつく抱きかかえたまま、桃矢は素早く店内の照明を消した。事務室を出ると、暗い店内はシャッターを通して街灯が入り込み壁に濃いストライプの模様を描き出している。びっしりと並べられた切花が夜目にも鮮やかなのとは対照的に、陰になる床の辺りは暗い闇に沈んでいた。
「…とーや。これ…？」
横たえられた背中を、柔らかなマットに迎えられて雪兎が桃矢を見上げた。
「撮影でな、店中敷物を敷き詰めてある。
さっさと中川達を追い払っちまいたかったから、後片付けはさせなかったんだ。
…安心したか？」
「それとこれとは、話が別だよ。
とーや。
…もう、帰ろうよ。こんな…」
抵抗しながら、雪兎の語尾が吐息に分解してゆく。とりわけ敏感な所ばかりを桃矢に選ばれて、抵抗が意味を持たない事を思い知らされる。
「どうした？…ゆき
もう、おしまいか？」
肌から顔を上げた桃矢が、固く目を閉じた雪兎の耳元に囁いた。雪兎が声を殺すのに精一杯なのを確かめて、柔らかなチノのベルトを緩め始める。ふと、チノのポケットに入ったそれを思い出して、雪兎は腕の中から桃矢を見上げた。
「ね。とーや。
じゃあ、ひとつだけ僕の頼みを聞いてくれる？」
チノの上から、すんなりとした脚に手を這わせながら桃矢は雪兎の瞳を覗き込む。熱っぽく潤んだ瞳に、白い花の影が映っていた。
「これ、僕に塗らせて」
雪兎がポケットから目の前に取り出して見せたのは、一本のリップグロスだった。ぎょっと目を見開いた桃矢は、一瞬の間の後かすかに目を細めて笑った。
「いいぜ」
そう言って、肘をつき顔を近づける。雪兎は、おそるおそるその唇に触れると手にしたグロスをひいて、……そして、息を呑んだ。
これほど、桃矢の目元は影が濃かったろうか。宝石のような瞳を濃い影が覆い、濡れた艶の唇が、まるで彼を別人のように見せていた。そう、まるで…。
雪兎は大きく震え、桃矢を押しのけようとして身をよじった。その二の腕を押さえつけて、暗闇に浮かんだ肋骨のラインに桃矢は唇を這わせる。いつもと違う、張りつくような感覚に雪兎は思わず悲鳴をあげた。まるで、黒い魔物に抱かれているようだ。容赦なくねじ伏せられ、体をまさぐられ、高められてゆく。いつもの桃矢らしからぬ乱暴さで、素の両膝を割られて、ついに雪兎が泣き声をあげた。
「おい、ゆき…？」
腕の中で激しく泣き出した雪兎に、桃矢が慌てて声をかける。
「こんなの…いやだ…」
「泣くなよ…。言い出したの、お前じゃないか」
「だ…って、知らない人に…抱かれてるみたいだ…」
泣きながら、子どものように言葉を捜す。桃矢はため息をついて、その頬をぬぐった。
「大丈夫だって。
目を開けろよ。…おれだろ？」
さっと塗っただけのグロスはとうに落ちて、雪兎の目の前で苦笑いを見せているのはいつもの桃矢だった。不安げな目の縁を指先でそっとなぞりながら、丁寧に涙を拭いてゆく。もう一度、いちからやり直しのつもりで、桃矢はゆっくりと雪兎の肌に唇を這わせた。ちらりと、その表情を伺い、髪を撫でる。
「目、開けてろよ。
でないと、またロクでもないイメージに参っちまうんだぞ」
「だって…とーや、すごく乱暴で…」
「お前が変に逃げるからだろ」
「あんな事、普段しないじゃない…」
「あんな…って何だよ。それ」
言い合いしながら、その間も休む事のない桃矢に、雪兎がため息を漏らした。そっと体が開かれる。ゆっくり分け入ってくる感覚に、思わず背筋がのけぞると、すかさず大きな手が胸にあてがわれ、緊張を和らげる。なだめられ、全てを預けて雪兎は穏やかに目を閉じた。やがて桃矢の動きに従いながら、雪兎の感覚が波に揺られ始める。降りてくる花の香りにさえ、くすぐられて、雪兎は細い声をあげた。
「来て…。」
伸ばした腕が桃矢の首を引き寄せた。濡れた髪が肌に鋭い刺激となって、雪兎は一気に高みに追いあげられてゆく。激しく揺さぶられ、荒々しい桃矢の呼吸も自分の声もどこか遠くに吸い込まれてゆく。
「とーや…花の香りが…」
その瞬間、汗ばんだ腕の中でうっすらと瞳を開き雪兎は呟いた。直後に訪れる忘我の時。雪兎はかすかに微笑んでそれを待った。
おしまい
緊張した〜〜！！
柄にもなく、緊張した〜〜！！
この程度しか書けなくて、すみません〜〜！
雪兎さん、いっつもおかしな場所でごめんね(^_^;)
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