梅雨明け前の日曜日、桃矢は雪兎とともに都心のＩデパートに来ていた。
老舗のＩデパートの空調は古く、人の多い催事場ではあまり強く効かない。
客の持ち込む濡れた雨具の湿気で、店内は蒸していた。
（どうせならもうちょっと気の利いた場所の方がよかったな。）
人混みと蒸し暑さの中で、たいして興味のないものを鑑賞することに閉口した桃矢は後悔していた。それでも、ここに来たいと望んだのが雪兎だった以上、それに逆らうことができなかったのも事実だった。
「Ｉデパート？買い物に行きたいのか？」
日曜日の予定を雪兎に聞いた桃矢は首を傾げた。夕食の材料の買い出しというならともかく、二人が都心のデパートまで連れだってショッピングに出かけることなど、まずない。桃矢は必要なものは友枝町の商店街で手早く買う方が性に合っている。雪兎もそれをのみ込んでいるのか、自分の買い物に桃矢をつきあわせたことはなかった。
「ううん、ちがうよ。
Ｉデパートの催事場で新進の陶芸家の作品展があるんだ。
それを見に行きたいと思って。」
「陶芸の作品展？おまえ、そんな趣味あったか？」
「特に趣味ってわけじゃないんだけど、このカタログを見てたらなんとなく。」
「ふ〜ん。どれが気になったんだ？」
「・・・これ。」
雪兎が指したカタログの作品は、青みがかった釉薬の地に大胆に線画が描かれた大皿だった。
「こういうのは上手いのか下手なのかさっぱりわからん。」
雪兎がクスリと笑いを漏らす。
「とーやらしい感想だね。気が進まないんだったらぼく、一人で行くけど。」
「・・・俺も行く。」
「あんまり趣味じゃないんなら無理しなくっていいのに。」
休日のデパートはきっと人がいっぱいだろう。途中の電車の中も混雑するにちがいない。おっとりとした雪兎をそんな人混みの中に一人で行かせる気にはなれない。それに都心のデパートなら、見知った顔に出逢うことはます滅多にない。人目を気にせずに済む分、雪兎との時間を心おきなく楽しめるだろう。そんな算段が桃矢の心の中にうかんでいた。
「行く。・・・で、その後、どこに寄るんだ？」
雪兎のことだから、帰りに寄るところも決めているはずだ。そう見当をつけて桃矢が聞くと、雪兎は嬉々として答える。
「あのね、４階のコーヒーラウンジ。
ビッグ・プリン・アラモードがおいしいんだって。とーやも食べる？」
「・・・いい。きいただけで胸焼けしそうだ。そういうのはおまえに任せる。」
「うん。」
げんなりした顔の桃矢を見て雪兎はくすくす笑った。
「ここ、暑いね。最後にあれを見たらお茶にしようか。」
桃矢がそろそろじりじりしてきたのに気づいたのだろう、雪兎がカタログの例の作品を指して声をかけた。
「で、それはどこだ？」
「人が多くて、あんまり先がわからないね。えっと・・・こっちかな。」
案内図を頼りに雪兎が指す方へ向かった。
雪兎が見たいと言っていた作品は、カタログから予想していたのよりも随分大きなものだった。一見、無造作に描かれたかに見える線画が、大きく、うねるように皿の上を躍動している。雪兎はその皿を食いいるように見つめていた。
「気に入ったのか？」
「・・・なんだか、すごいね。圧倒されちゃう。」
「確かにでっかい皿だな。これじゃ料理をのせたら重くて運ぶのが大変だ。」
「そういうこと言ってるんじゃないよ、とーや。お料理につかうお皿じゃないんだから・・・。」
あきれた雪兎が桃矢に小声で耳打ちする。
「ここで展示してるヤツって、買えるんだろ。気に入ったんなら買うか？」
「気に入っても、ぼくに買えるようなものじゃないよ、とーや。」
雪兎に言われて桃矢は値札をのぞき込み、目を剥く。
「げっ・・・・こんな値段つけて、誰が買うんだ。」
実のところ、桃矢は雪兎が望むなら、自分が買ってやるつもりだった。ふだん何も望まない雪兎に、たまのショッピングでプレゼントというのも悪くないだろうと思っていた。だがこの大皿の値段は、桃矢の心づもりとはあまりにもかけ離れている。
雪兎はそんな桃矢の心の内も知らず、くすりと笑いを洩らした。
「とりあえず、ぼくは目の保養。・・・お茶に行こっか。」
７階の催事場から目的のラウンジのある４階まで、下りのエスカレーターに乗る。
４階は紳士服のフロアで、 エスカレーターの降り口には帽子やネクタイなどの小物が並んでいた。
大股で先を行く桃矢の後を追っていた雪兎が小さな声をあげ、立ち止まった。一瞬遅れてそれに気づいた桃矢が引き返してくる。
「どうした？」
「あ・・ううん、なんでもない。」
そういいながらも雪兎の目はショーケースの上に吸い寄せられている。そこには樹の枝をかたどった帽子かけに濃い緑色の帽子が飾られていた。
（緑の帽子？ゆきの好みと違うような気がするが。）
桃矢の視線に気づいたのか、雪兎は照れたような微笑みを浮かべた。
「ごめん。行こうか。」
歩き出した雪兎に、「欲しいのか？」と聞いてみたかったが、おそらくいつものように「ううん、別に。」というしか答えしか返ってこないだろう。
（ゆきの好みってこんなのだっけ？）
あらためて考えてみても、雪兎の嗜好はさっぱり思い浮かばない。はっきり知っているのは、食べ物に好き嫌いがないというくらいだ。ふだんの服装も、凝っているのだか、そうでないのか、桃矢にはよくわからない。どちらかというと、さっき見ていた帽子のような濃色よりも、淡色を好んでいるような気がしたのだが・・・。
（けど、あれはただ見てたって目じゃなかったよな。）
「おい、ゆき。」
桃矢は心を決めて雪兎を呼び止めた。
「なに？とーや。」
「ちょっと先に行っててくれ。」
「え？どこか寄るの？ぼくもつきあうよ。」
「いや、いい。すぐ済むから、俺のコーヒーも頼んどいてくれ。
おまえは・・・ビッグ・プリン・アラモードか？」
「うん。」
にっこり微笑って歩き出した雪兎の姿を見送り、桃矢は踵を返した。
窓を大きくとった明るいラウンジの中はよく冷房が効いていた。桃矢が小さな紙包みを抱えて店内に入ると、窓際の席で待っていた雪兎が小さく手を挙げた。桃矢が席に着くのとほぼ同時に注文されたものが運ばれてくる。
「ほらこれ、おいしそうでしょう？いただきます。」
雪兎が嬉々としてその店の名物のアラモードに挑みかかる。桃矢はその様子をコーヒーをすすりながら微笑んでみていた。
（こういうときのゆきって全っ然、色気がねえよなあ。あの時とは別人みたいだ。）
その視線に雪兎がふと気づく。
「・・・なに？とーや。」
「ああ。旨そうに食うなと思って。」
「・・・それだけじゃないような気がしたけど。」
「深く追求するな。美味いか？」
「うん、おいしいよ。とーやも一口食べる？」
「いや、いい。」
桃矢の様子に首を傾げていた雪兎は質問の矛先を変えた。
「ねえ、とーや。その包み、なに？桃矢がこういうところで買い物するの、珍しいよね。」
「ああ。そのプリン、食っちまったら開けてみていいぞ。」
「え？」
「おまえにやる。」
雪兎は空になった食器を脇によけ、桃矢から包みを受け取った。
「とーや、これ・・・。」
雪兎の手が止まる。
桃矢の期待とは裏腹に、雪兎は戸惑ったような表情を浮かべていた。
「どうして、これを？」
「さっきそれをじっと見てただろう？
おまえ、いつも欲しいものがあっても言わないから。
・・・違ったのか？」
困ったような顔で雪兎は答えた。
「見てたのは確かなんだけど・・・。
欲しがってたのはぼくじゃなくて・・・さくらちゃんなんだ。」
「さくらが？けど、これ男物・・・。」
言いかけて桃矢は気が付いた。
「あのガキにか？」
みるみる険しくなった桃矢の表情に、雪兎が溜息をついて答える。
「うん。小狼君の誕生日のプレゼント。」
「誕生日？いつなんだ？」
「もうすぐなんだ。 ７月１３日。
さくらちゃんはいろいろプレゼントを探していて、
この前、知世ちゃんとここに来たときにあの帽子を見つけたんだって。
あの子の好きな、すごく綺麗な緑色の帽子。」
言われてみれば、その色はあの少年が好んで身につけている色だった。
「だけどこれ、お値段も相当するでしょう？
さくらちゃん、お小遣いは一生懸命貯めていたから足りるんだけど、
もらった小狼君が逆に心配するんじゃないかって、ぼくに相談してきたんだ。」
「こんなところへ珍しく来たいって言うと思えば・・・陶芸展は口実か。」
「違うよ、とーや。このデパートだってことは聞いていたけど、
行きたいって思ってた陶芸展の会場が同じデパートだったのは、ただの偶然だよ。」
桃矢はさくらと雪兎の二人に二重に引っかけられたように思えて、腹の虫が治まらない。
苦虫をかみつぶしたような顔の桃矢を見て雪兎が溜息をつく。
「とーやって、どうしてあの子のことだとそんなふうになっちゃうの？」
「理由なんかねえよ。気にくわねえだけだ。」
にべもなく答える桃矢の顔を見つめ、雪兎は真剣な表情で聞き返した。
「じゃあ、もしもぼくに普通に家族がいて、
その家族がとーやとのことを反対してたら、とーやはどうするの？」
「え？」
思わぬ方向からの雪兎の反撃に桃矢はたじろいだ。
「どうって・・・その・・・とりあえず、おまえの家族を説得する。」
「それでも反対されたら？」
「・・・・ゆきをひっ攫って、逃げる。」
「めちゃくちゃだなあ。強引すぎてお話にならないよ。とーや。
桃矢はそうかもしれないけど、あの子なら、きっとそんなことはしないよ。
だって、さくらちゃんは、とーやと藤隆さんをすごく大切に思っているもの。
そんなことをしたらさくらちゃんが哀しむから、
小狼君はきっと、わかってもらえるまでずっと、とーやに頭を下げ続けると思う。
とーやはさくらちゃんが哀しんでも平気なの？」
「ふん。」
「とーや！」
そっぽを向いた桃矢の目を雪兎の泣き出しそうに大きな目が懇願するように追ってくる。雪兎と目を合わせまいとしていた桃矢が耐えきれなくなって目を上げた。
「・・・・・わかった。ゆきに免じて今回は譲ってやる。」
桃矢が不機嫌ながらもそう言うと、雪兎はぱっと顔を輝かせた。
「よかった。さくらちゃんもきっと喜ぶよ。」
「で、俺はどうすればいいんだ？」
「うん・・・。これ買っちゃったし、せっかくだから
３人からのプレゼントってことにしない？」
「３人？」
「うん。とーやと、さくらちゃんと、ぼく。
３人分なら小狼君もあんまり気にしなくて済むんじゃないかな。」
「好きにしてくれ。俺はなんでもいい。」
「じゃあ・・・。」
さくらにどう伝えようかと嬉しそうに話す雪兎を見ながら、桃矢はこっそり溜息をついた。
（結局、ゆきにはどうしたって勝てねえんだよな。）
「・・・ったく、強引だの無茶苦茶だのって、散々に言ってくれて。」
帰り道、雨は上がっていた。二人は遠回りをして雨の滴に光る木々の緑を眺め、ゆっくりと歩く。まだぼやき続ける桃矢に雪兎はくすくす笑った。
「でも、相互作用ってこともあるから。」
「相互作用？なんだ、それは。」
「さくらちゃんは家族をおいて出ていったりしないだろうけど、
ぼくはきっと、とーやが連れに来たら
すべて捨てて一緒について行っちゃうんだろうね。」
日頃の穏やかさからは想像もつかない情熱的な告白をした雪兎は、「あくまでも想像だけど」と弁解するように、はにかんだ小さな声でつけ加える。その姿を桃矢は目を丸くして見つめた。
（やられた。俺は絶対、こいつには勝てねえ。）
「あのガキのおかげで、ゆきにやろうと思ってたプレゼントがなくなっちまったな。
ゆき、おまえ何か欲しいものないのか？」
「いいよ、別に。誕生日でもクリスマスでもないし。」
「おまえの場合、どっちも同じだからな。
季節はずれのプレゼントがあったっていいだろ？」
「うーん、とくに欲しいものなんてないよ。」
「ほんっとにおまえって欲がねえな。」
「そう？だっていちばん大きな幸せはとーやからもう、もらっちゃったから。」
「ばか。」
桃矢は雪兎の頭を拳でこつんと小突いた。
雪兎は桃矢の照れた顔を見上げて微笑う。
「でも、本当だよ、とーや。
欲望って望めば望むほど底なしになって、キリがないでしょう？
そのうち本当に欲しいものがなんだったのか見失っちゃう気がする。」
「おまえのは欲が無さすぎだ。」
「特別なことじゃなくても、叶えられた日常の小さな幸せもたくさんあるよ。」
「どんな？」
「こうやって一緒に歩けること。
いろんなことを話せること。
雨が上がって、綺麗な木々の緑が光るのを見られること。
あと・・・洗濯物がよく乾くとか、ご飯がおいしいとか。」
「・・・だんだんゆきらしい望みになってきたな。」
桃矢が笑い声をたてると、雪兎も一緒になって笑った。
「あ、そうだ。ねえ、とーや。プレゼントになんでも望んでいいの？」
「ああ。何か思いついたのか？」
「うん。あのね、お弁当。」
「弁当？なんにするんだ？」
プレゼントと呼ぶにはあまりにも卑近なもので、拍子抜けした桃矢は首を傾げた。
「次のとーやのバイトが休みになる日、お弁当もって一緒にピクニックに行かない？」
「なんだ、それで弁当か。・・・ま、いいか。ゆきらしくて。
その頃には梅雨も明けてるだろうしな。」
「いいの？たくさん作ってほしいんだけど。」
「いつもより、か？」
「うん。おなかが空きそうだから。」
「・・・ゆきって本当に燃費が悪いな。」
「あはは・・・。」
雪兎の目に宿る悪戯っぽい光に気づかず、桃矢は雪兎と二人っきりの楽しい休日を思い浮かべ、幸せに浸っていた。そのピクニックに、さくらや藤隆をはじめ、小狼や知世までが招待されることを、桃矢はまだ知らない。