桃 矢
原作 第９巻より
（３）
もう秋月が入り込む余地はない。
カーテンを閉ざした保健室の中は、二人のために、ほの白い光で満たされていた。風のざわめきが細波のような明るい影となって、壁を渡っていく。
桃矢は、雪兎の傍らに腰を下ろし、やつれた頬に触れた。
「とーや…ぼくは…」
「いいんだ。ゆき。長いこと待たせてすまなかったな」
「……」
「おれが、ちゃんと話せばよかったんだ。
お前を失うのが怖くて、こんなに長引かせちまった。」
細かく震える唇に、もう一度、触れたいと思う。けれど、それは別れを予感させるようで、桃矢は自分を戒める。
「これが終わったら───。
ゆきは、また元気になる。前みたいに、走ったり笑ったりできるようになる。」
「でも…」
「うん。きっと、俺とゆきは、最初の頃みたいな友人になれる。」
───好きだと、言った事も。体を重ねたことも。すべて、桃矢の力と共に、雪兎の心から消えていく。
雪兎の喉がこわばり、かすかなうめきが漏れた。震える手が伸びて、桃矢の胸をつかもうとする。桃矢はゆっくりと首を振った。
「泣くな。ゆき。」
柔らかな頬は、まだ掌に触れている。桃矢はつかの間、その曲線をいとおしみ、目を上げた。
雪兎が目を瞬く。
桃矢はまっすぐに見つめていた。
「これで終わりじゃない。
お前は、いてくれれば、いい。
俺は、何度でもやり直すから。」
言葉が、迷いを払っていく。
「よく聞けよ。 おれは」
森に思いを馳せる。森に、空に、あの月に届くように。
「おまえが人間じゃないって 知ってる」
桃矢はゆっくりと言葉を継いだ。
失うものに届くように。
「───だから。隠さなくていいんだ。」
最後の涙が、こぼれ落ちた。待っていたように発光が始まり、雪兎は後退していく。大声で泣きたいけれど、もう涙腺は働きを止めてしまったのかもしれない。
まぶたの裏はまだ熱いのに。
声を失った唇が震えて、ようやくひとつの言葉の形を作る。
『好き』
かすんでいく桃矢が、うなずいたのがわかる。
光の中、雪兎の意識は、そこで閉じられた。
＊
羽を広げたユエは、桃矢の前に立ち、長いこと沈黙していた。
『…ああ。』
ぼんやりとその姿を見つめていた桃矢が、気がつく。無表情を装っているけれど、おそらく、彼は言葉が見つからないのだ。
雪兎に似ている、そう桃矢は思った。
笑顔の中に、すべてを埋没させてしまう雪兎と、手法こそ違え、彼は似ている。
それなら、やはり───口火を切るのは自分なのだろう。
「ようやく、会えたな。────名前は？」
ユエが、こくりとうなずいた。
＊ ＊ ＊
冷たい指先に、暖かな手が触れた。
重いまぶたを開くと、とび色の大きな瞳が、瞬きして笑っている。
「よかった。どこも痛くない？」
体の重さに、うまく馴染めない。胸が大きな石でふさがっているような感覚があって、かすかに眉をひそめる。
「さっき、急に倒れちゃったんだよ。」
「…ああ…分かってる。」
分かっている。全てはうまくいったのだ。
「起きられるかな？」
「ああ…」
促されて、桃矢は起き上がろうと試みたけれど、それはうまくいかなかった。ただの疲労とも違う脱力感で、目を開けていることもおぼつかない。
「参ったな…これからバイトあるんだ…」
「そっか…それなら…」
一瞬、思案した表情がぱっと輝き、雪兎が何か言おうとした時、保健室のドアが軽くノックされ、担任が顔を出した。
「ああ？なんだ、倒れたのは木之本なのか？珍しいこともあるもんだな。
月城。さっきの書類、はんこが要らないヤツだけ、今、書いてほしいんだ」
「書類…？」
首をかしげた雪兎は、担任が差し出した薄い封筒を受け取って、ああ、とうなずいた。
「すみません。どこで落としたんだろう。帰りにもう一部もらいに行こうと思ってたんです。」
「なんだか顔色が悪かったからな。もう大丈夫なのか？」
「はい。ありがとうございます。」
雪兎はそういうと、ベッド脇の小さな机に書類を広げた。
「氏名…と。保護者名……住所…本籍…家族の状況…で、いいですか？」
「ああ。そうだな。事由はこちらで書くから…。
ところで、…木之本はどうするんだ？自力で帰れるのか？」
さらさらとペンを滑らせる雪兎の横顔をぼんやりと見あげていた桃矢は、担任の問いに小さくうなずいた。
「はい。少し休ませてもらって、帰ります。」
「誰か迎えにこられないのか？なんだか、顔色冴えないぞ」
「父は出張中だから…」
「僕が送ります」
そう言いながら、雪兎は記入した文面をしかめ面しく読み返し、やがて、できばえに納得したのか、きゅっと口元で笑った。担任に書類を渡すと、桃矢を振り返ってにこりと笑う。
「自転車もあるし、僕が乗せて帰ります。ね？
───桃矢？」
穏やかな声が、名を呼ぶ。揺るがず、明朗な響きで。
まるで、さりげない朝の挨拶のように。
全てが予定通りだ。
この胸の痛みまで、──文句のつけようもなく。
桃矢は黙って、重いまぶたを閉じた。
「桃矢」 了
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