閼 伽 ２
「やだー！！ここはやだっ！」
雪兎にしがみついた閼伽がヒステリックな叫び声をあげた。そのまま斜面を駆け上がって逃げ出そうとするのを抱き止めて、雪兎の声も悲鳴に近い。
「ま…待って、大丈夫だから！閼伽ちゃんっ」
「やだーー…あ」
金切り声が青空に吸い込まれる。じたばたと暴れる痩せた体に桃矢の手が伸びて、そのまま赤子のように高々と抱き上げられたのだ。
「こら。ゆきを困らせるな。大丈夫だって、言ってるだろ？」
「大丈夫なわけない！」
「いいから、おいで。」
閼伽を肩に担いだまま大またで斜面を降りる。降り立った先に、光を浴びて輝く湖が待っていた。息を弾ませて追いかけてきた雪兎がふくれっ面の閼伽をなだめ、ようやくスケートの支度が始まった。新しく用意したスケート靴は、二人が使うものよりも足首がしっかり固定される。うまく紐を結べない閼伽の足ごしらえをして、桃矢と雪兎は一息つくと湖を振り返った。
夕べは荒れ模様だった。
厚い氷が張り詰めた湖面には名残の風が吹き渡り、複雑な風紋が朝日を浴びて銀色に踊っていた。スケート靴を履いた閼伽は桃矢と雪兎の間に身を縮めるようにして、湖を窺っている。
「ここは…怖いのがいるもの…」
「怖い？」
首をかしげた雪兎は、ふと思い当たって桃矢を見上げた。桃矢はそ知らぬ顔だ。湖を見渡し風向きを見定めると、満足そうに頷いて二人を振り返った。
「３人目が参入したら、アイスホッケーのルールも変えなくちゃ、な。」
「聞いてるのか、桃矢！ここは…」
「ゆきは小一時間だったかな。閼伽も似たようなもんだろ。」
「やだってば。こんな所でスケートなんて…」
「いくぞ！閼伽、背中伸ばせよ！」
「やっ…あーーーーーっ」
金切り声が桃矢に引きずられてたちまち遠くなる。雪兎は慌てて氷を蹴った。
＊ ＊ ＊
「ルール改正の必要なし…か？当てが外れたなあ。」
「あの湖の底にいるのを、随分怖がっていたから…無理なんじゃない？」
「聞いたろ？あのでっかい声。あれで目を覚まさないんだからさ、
気にしなくて大丈夫だと思うんだけどな。」
徒労に終わった氷上の大騒ぎを思い出して、雪兎はクスと笑った。桃矢の隣で食器を拭く手を置いてちらりと振り返る。騒ぎ疲れた閼伽は暖かな昼食を腹いっぱいに詰め込むと、汗を流すこともしないでコロリと眠ってしまった。トロトロと燃える暖炉の側は午睡には丁度いい。
「後片付けはいいから、ゆきは風呂を使っちまえよ。
閼伽が起きたら、焚きなおせばいいさ」
なべの底を丁寧に磨きながら桃矢は目線で雪兎を風呂へ追いやった。手早く洗い物を済ませ、続けて夕食のパンの準備を始める。粉を練り、醗酵を誘うのだ。大きなボウルの中で人肌に暖まったタネが心地よい感触で手のひらに吸い付いてくる。桃矢はタネを綺麗にまとめ濡れ布巾をかけて暖炉の側の暖かな所に置いた。閼伽は段通の上でくるりと丸まって、気持ちよさそうな寝息を立てている。
「いい子だな」
桃矢はそう呟くと、ひざ掛けを足元にふわりと着せかけ立ち上がった。
気持ちよく欠伸をして、雪兎は湯の中から立ち上がりバスタオルを取った。ピリピリするほど熱かった湯が、白い肌を桃色に染めている。余り長湯をしては、湯温が下がってしまう。熱い湯を好むのは桃矢の方だ。
「やっぱり、桃矢が先だよね」
「オレがなんだって？」
不意に扉が開いた。驚く雪兎に構わず浴室にすべり込むと後ろ手に扉を閉めて、人差し指を唇に当ててみせる。
「…」
息をのみ込んだまま雪兎は口をつぐんだ。不意に体が呼び覚まされる。桃矢は、揺れる視線をしっかりと捕まえたまま、無造作に服を脱ぎ捨てた。
「…とーや…あの…」
無意識に後ずさりしそうになるところを、桃矢の長い腕に捕まえられる。バスタオルが払いのけられ、ひんやりと乾いた肌に抱かれただけで、雪兎は呼吸を乱した。閼伽を預かっている間お互いを封じたはずなのに、明らかに約束違反だ。そのせいか、桃矢は強引に事を仕掛けながら慎重でもあった。
「汗を流す前で悪いな」
「…閼伽ちゃんが…」
手が止まる。
「気になる？」
そう耳元で囁かれても、頷くことができずに雪兎は赤くなった。もちろん気になる。閼伽の眠りは深いところからでも、瞬時に覚醒する。午睡の時間はごく短いだろう。そうわかっていても、もう雪兎にはどうしようもなかった。
震えるように首を振り、欲しかった広い背を強く引き寄せる。桃矢が満足そうに喉を鳴らした。
＊ ＊ ＊
夜になって、また風が強くなってきた。
髪を洗ってもらった閼伽はふわふわした毛糸玉のようだ。桃矢のソファの足元に座って編み針の不思議な動きに目を輝かせている。
「今夜中に出来上がるよ。」
「これが腕になるのか？」
「そう。右腕。あー…毛糸にじゃれるなって。」
閼伽の髪と同じ綺麗な赤い部屋着だ。 床に転がる毛糸玉と自分の髪を比べて遊ぶうちに、絡まってしまいそうなのを桃矢が助ける。しかめっ面で毛糸をほぐす桃矢を見上げていた閼伽が、何気ない口調で尋ねた。
「なあ。桃矢はなんで雪兎にはつじょうするんだ？」
「…はぁ？」
一瞬あっけに取られた桃矢は、頭の中でその言葉を漢字に変換した途端あわてて雪兎をうかがった。
「さっきからずっと寝てる。俺がそんなに物知らずだと思ってるのか？」
向いのソファに座った雪兎は読んでいた本を膝に落として、気持ちよさそうな寝息を立てていた。編み物に熱中して気がつかなかったのだ。桃矢は苦笑いして息をついた。
「やっぱ、起こしちまってたか。」
「あたりまえだ。あれで起きないほうがどうかしてる。それより…」
「なんでオレがゆきに発情するか…って？」
閼伽は真剣な表情でうなずく。桃矢はソファで眠る雪兎を眺めながら言葉を捜した。簡単なようでいて、説明は難しい。迷っていると閼伽は姿勢を変え、桃矢のソファにもたれかかって同じように雪兎を見つめた。
「俺の手足は棒切れみたいだ。母さまや他のメスみたいに肉が豊かでもない。
一族の中で、俺に発情するオスはいないんだ。」
すねた口調でもない。半ば諦めたような表情で膝を縮め両手で抱いた。
「雪兎だって、俺みたいにひょろひょろしてるし。
なのに、なんでだ？桃矢が特別なのか？」
「特別ってほどでもないけどな。」
桃矢は後ろから閼伽の体を引き上げると、膝の上にすとんと降ろした。まだ袖のない部屋着の身頃を着せて、編みかけの袖の長さの具合を測る。ひょろりとして少年のような腕だ。
「確かに人間の世界のほうが、バリエーションは多いかな。
…だけど、オレたち二人が少数派なのは変わらない。」
「だから、ここにいるのか？」
「ゆきには必要な時間なんだろう。」
桃矢自身はとっくの昔に気持ちは決まっていて、誰に対しても臆するところはない。…けれど雪兎はそういうわけにはいかないらしい。
「何にこだわってるのか…もう、よせばいいのにな…」
少し笑って、桃矢は閼伽の髪をなでた。
「桃矢の事を好きで、それだけじゃダメなのか。」
「…らしい。」
「ニンゲンは面倒なんだな。」
そう言って欠伸をすると閼伽は桃矢の膝から滑り降りた。もう子どもは寝る時間だ。桃矢は居間のランプを小さく絞り、ロフトに上がってベッドを整えた。水差しを持った閼伽が梯子を上がって来て、ちょこんと小さなスツールに腰掛ける。桃矢は丁寧に髪をとかし、緩い編みこみにして眠るのに邪魔にならないようにした。鏡に映る細面は、燃えるような髪に縁取られて輝くばかりだ。
「閼伽は母親似だな。」
アーモンドの形をした碧の瞳が、ぱちりと開いて視線を返した。髪の手入れが終わると、閼伽は素早くベッドにもぐりこむ。桃矢はベッドの縁に腰を下ろして、いつも寝る前に読んで聞かせる本を膝の上で開いて、ふと考え込む。怪訝そうな閼伽の顔を改めて見つめ、桃矢は本を閉じて小さく笑った。
「もしも、閼伽が人間の世界に暮らしてたら…教えてやろうか。
めちゃくちゃもてるぞ。断るのに苦労する。」
「うそだ」
「保証するって。男は確かにグラマラスなのが好きだけど、
スレンダーな美女が好みの男も、同じくらい多いから。」
からかわれているような気がする。閼伽が照れ隠しにふくれ面をするのを笑って、桃矢は少し考え込み口調を改めた。
「オオカミの集団の中で求められないなら、きっと閼伽を求める者は他にいるんだ。
オオカミとして愛されて子どもを産む事じゃない、なにか違う生き方があるんじゃないか。」
「…そんな事を言われても…な…」
考えたこともなかっただろう。閼伽ははっきりと戸惑っている。
「焦らなくていい。たっぷり時間はあるし、オレもゆきもとことんつき合うさ。」
おおらかな笑い顔を見上げて、閼伽は少し赤くなった。困るのだ。雪兎が羨ましくなってしまう。慌ててダウンケットを目元まで引き上げてくるりと丸くなる。桃矢はおやすみと言ってランプの灯りを消した。
編みあがった赤い袖を身頃に接いで、ふうと息をつく。顔を上げるとソファの中で雪兎が見つめていた。
「よく眠ってたな。閼伽はさっき寝かせたぞ。」
「閼伽ちゃんの部屋着、できたんだね。珈琲いれようか」
「ああ。いいな。」
軽く伸びをして雪兎は立ち上がった。やがて馥郁とした香りとともにマグカップが置かれる。二人はしばらくの間、黙って珈琲を飲みながら風の音を聞いた。雪はついていないようだ。明日の朝は、また冷え込んで真っ白な樹氷を見られそうだ。手のひらにマグカップを包んで雪兎が口を開いた。
「さっき、上でとーやが言ってたこと…」
言葉が途切れ、視線がロフトを伺う。閼伽を起こさないように、桃矢は場所を変えた。雪兎が座るソファの肘掛に腰を下ろし、覆いかぶさるようにして耳を傾ける。
「閼伽ちゃんのお母さんも、そう思っているの？」
「悲しんでいたな。メスは群れを作って助け合いながら暮らすし、大事な娘だ。
手元に置いておきたいのに…」
母狼に呼ばれ、閼伽や仲間たちに再会した北の森を思い出し、桃矢は呟く。
「それは、閼伽のためにならない…って、考えていた。」
やはり──、と雪兎は少し哀しげにため息をついた。
閼伽は、生れ落ちてすぐに桃矢たちに預けられた。短い期間とはいえ人の手で育てられた事が、閼伽を変えてしまったのかもしれない。
「もう…北の森には帰らないのかな…」
顔を上げると、桃矢の眼差しがすぐ目の前にあった。
「それは閼伽が決めることさ。」
「でも…」
迷う言葉を暖かな唇がさらっていく。穏やかに抱きくるまれ、雪兎は黙って目を閉じた。
＊ ＊ ＊
氷の上に歓声が響いた。
今日も空が青い。声の主は閼伽だ。昨日の悲鳴とは打って変わって、けたたましく笑っている。時折、雪兎や桃矢の明るい声が重なって、いっそうにぎやかだ。
桃矢はアイススケートを諦めて、雪兎が以前作ってくれた氷上ヨットを走らせていた。最初一人用ボードだったのを補強し、二人で乗れるようにしてあったものだ。マストに閼伽をつかまらせ、桃矢はその後ろから帆を操っている。折からの風に乗り、ヨットは豪快な音を立てて氷の上を走った。
「桃矢！！もっとーー！！もっと早く！！」
始めこそ怖がっていた閼伽が、飛び跳ねんばかりに興奮して、湖岸に立つ雪兎に手を振る。
ヨットが湖岸に沿って走ると、騒音に驚いた冬の鳥が次々に飛び立ち、まるで波のようだ。
「とーやってば、張り切っちゃって、危ないなあ。」
雪兎が苦笑いするのも無理はない。今日の桃矢はひどく荒っぽい。閼伽を喜ばせようと、ギリギリまでボードを酷使している。激しい音と速さに、閼伽は野生を呼び覚まされたのかキラキラと瞳を輝かせていた。
「よーし…」
対岸あたりに帆が差し掛かるのを見計らって、スケートを履いた雪兎は湖面に滑り出した。
「雪兎ーーーー！！」
目ざとく見つけた閼伽が手を振る。距離はどのくらいあるだろう。雪兎は大きなストライドで加速しながら間合いを計った。
桃矢が怪訝そうにこちらを伺っている。
いい距離だ。
雪兎はエッジで鋭く氷を削り、その余勢を駆って腕を振りぬいた。
桃矢が目を剥いて重心をずらし、ヨットを加速させる。青空に輝く弧を描いた雪球が、ボートの最後尾に当たって砕けた。
「おしいっ！！」
「ゆきー！！何しやがるっ！！」
それぞれ声を張り上げる二人の表情に、閼伽がけたたましく笑った。
「すごいー！雪兎が雪玉いっぱい持ってる！！」
「冗談じゃねえーー！！」
ヨットの進路を狙った雪つぶてが、驚くような正確さで降ってきた。すれすれの所でかわしているように見える桃矢が歯を剥いて吼えた。
「あいつー！わざとはずしてやがる。」
「逃げて逃げて！桃矢！逃げて！！」
「逃げるかよ。見てろ！！」
桃矢は湖岸を離れ、舳先を湖の中心に向けた。風向きもちょうどいい。風に乗って一気に攻めに転じる。慌てた雪兎が雪球を抱えたまま後退した。速さではかなわなくても、スケートは小回りが利く。後退しながらも、次々に雪球が放たれ、桃矢がそれをかわしながら猛追する。閼伽の金切り声も加わって大騒ぎだ。
「閼伽！足元の雪玉使え！」
雪兎があっという顔をした。ボードの上に当たった雪玉が、半ば崩れたままへばりついている。閼伽が歯をむき出して笑った。すばやく雪玉をくすいあげ、バランスをとりながら握り直す。
「準備完了ーー！」
雪兎が最後に放った雪玉が閼伽の手に命中した。しかし、間一髪で掌を返し、手中の雪玉を守った閼伽が勝ち誇った叫び声を上げた。桃矢がぐんと加速して、雪兎を射程距離につかまえる。
「いいぞ、閼伽！」
「照準セットー！！」
「わあァーーーーー！」
悲鳴と歓声が入り混じって湖に響き渡った。
突き上げるような、重い震動が３人を襲った。
湖畔の森からいっせいに鳥が飛び立つ。
氷の上に投げ出された３人は、一瞬何が起こったのかわからないまま、お互いを探した。青空がゆがむ。３人を乗せた湖の氷が、大きくたわんで波打った。氷を震わせて地鳴りが轟き、悲鳴のような軋みが重なる。氷の波頭から波の底へ、振り立てられ、滑落する。手をこまねいていれば氷の波間に３人が分断されてしまいかねない。桃矢はとっさに腕を伸ばし、閼伽のスキーウェアをつかんだ。視線をめぐらすと、少しはなれたところで雪兎は真っ青になりながら唇を噛んでいた。この氷の底に引きずりこまれた時の恐怖に押しつぶされそうになっている。
「ゆき。」
桃矢のよく通る声で雪兎は我に返った。
「大丈夫。氷は割れない。それより、閼伽だ。」
森との約束は有効だ。落ち着いた声に励まされて、雪兎はエッジで斜面に抵抗しながら桃矢に向かって腕を伸ばす。二人はお互いをしっかりとつかみ、間に閼伽を抱き込んだ。
閼伽は驚愕に顔を引き攣らせたまま、口元をゆがめて唸り声を上げている。目の焦点が合っていなかった。
「閼伽ちゃん。」
呼びかけても届いていない。二人は顔を見合わせた。どうにかして引き戻さなければ、パニックに陥った閼伽は野生そのままに暴れだしかねない。しかし、大きくのたうつ氷の上で、二人ともお互いを離さずにいるのが精一杯だ。雪兎は桃矢ごと閼伽をぐいと引き、冷たい頬が触れ合うほどきつく抱きしめた。そうやって、身体の中に直接呼びかける。
「すぐ収まる。大丈夫だから。怖がらないで。」
桃矢はうなずいて雪兎を励まし、腕に力を込める。繰り返すうちに閼伽の目に光がともり、ひゅっと喉が鳴った。
叫ばせてはいけない。
雪兎の唇が絶叫を封じて重なった。
そう長い時間ではなかったはずだ。目を剥いた桃矢の腕に、くたりと力の抜けた閼伽の体重がかかる。恐慌状態がひとまず去ったことを確かめると、雪兎はそっと顔を上げ決まり悪げに桃矢から目を逸らした。
そして、はっと声を上げる。
「見て。とーや。閼伽ちゃんも。」
うねりが大きくなる。氷を覆っていた雪も激しい動きに翻弄され、風に払われていく。遮蔽物のなくなった氷の下に、巨大に蠢くものが見えた。圧倒的な圧力で氷を押し上げ、破れようかというところで身を翻して湖底に向かう。冬の日差しを受けて、その体が列車のように長く、固いうろこで覆われているのが見て取れた。何本もの長いひげが、氷の底に触れ激しい振動を起こした。
「ぼくたち、会うの３度目だ。閼伽ちゃんを見に来たの？」
「ためつすがめつ…ってところだな。閼伽が何者か、見極めたいんだろう。」
「…閼伽ちゃん、もう少し辛抱して。きっと大丈夫だから。」
二人が囁き交わす間も、閼伽は大きく目を見開いたまま一言も発しない。まるで魅入られたようだと不安を覚えた時、ふいに閼伽が息を呑んだ。
はっと顔を上げると、氷の向こうを巨大な円がよぎる。目だ。縦に長い金色の虹彩が、すうっと細くなって笑ったようだ。唇をかみ、しっかりと閼伽を抱きしめる。やはり恐ろしい。閼伽をどう見極めたのか、その目からは読むことができずに雪兎も震えた。
＊ ＊ ＊
＊ ＊ ＊
「どう…？」
閼伽を休ませているロフトから降りると、雪兎がテーブルを片付けながら小声で訊ねた。顔色が悪い。桃矢は首を振ると、黙ってココアを作り雪兎を暖炉の傍へ招いた。敷物の上に二人で座り込み、しばらくの間無言で熱い液体を啜る。薪のはぜる音が少しずつ張り詰めた神経をなだめてくれる。
「…眠ってる。大丈夫、眠ってるだけだ。」
「…うん…。」
＊
閼伽の姿を認め、うっすらと笑った巨大な目の持ち主は、その直後深く湖に沈みこんで姿を消した。何事もなかったように静まり返る湖面で、桃矢と雪兎は呆然とうずくまっていた。風がいつの間にかやんで、日差しを浴びた細かな雪が、小さな花びらのように輝きながら舞い降りてくる。午後の始めの雪だった。閼伽が意識を失っていることに気がついたのはその時だ。声をかけても揺さぶっても、まるで魂が抜けたようにぼんやりとした視線を空に向けて応えない。
桃矢と雪兎は愕然として顔を見合わせた。
＊
それからは、降り止むことがない。
風もなく、ただ深深と降り積もる。静かな雪にうずもれて、閼伽は眠り続けて目を覚まさない。桃矢と雪兎が交代で寝ずの番をして、もう３日目だった。
「ゆきも少し寝ないと、参っちまうぞ。今夜はオレが起きてるから」
そういいながら、桃矢は雪兎の手からマグカップを取り上げ、肩を引き寄せた。そう言う桃矢自身もあれからほとんど眠れていない。
「湖の底に、連れて行かれちゃったんだろうか。」
「ゆき。お前無茶なことを考えるなよ。」
桃矢が思いつめた表情を覗き込むようにして、気遣った。
「あの時、俺たちは自分の力で湖の底から脱出したんじゃない。
単に目こぼししてもらっただけだ。
分をわきまえておかないと、とんでもないことになる。」
「わかってる。……わかってる…」
けど…と呟いて、雪兎は眉を寄せ目を閉じた。他に閼伽の意識を取り戻す当てがない。閉じたまぶたから、露のような涙が零れ落ちた。
張り詰めた緊張が一時に途切れ、もう止まらない。桃矢に抱かれて、涙が止まらない。
細い泣き声が夜の冷気に沁みていった。
かすかな、しかし張り詰めた音に、桃矢が耳をそばだてた。
雪兎にも、その音が届いて、泣き濡れた瞳を瞬く。
すっぽりと雪に包まれた小さな家の中で、鳴り続けるその音は冬の月影のように澄んで響き渡った。
思わず悲鳴をあげそうになる。
部屋の隅に立てかけられた龍頭の楽器が、目に見えるほど激しく弦を震わせ、音を発していた。調律もしていない弦が、正確な倍音で空気を震わせる。
「雪兎───に、」
名を呼ばれた身体が、撃たれたように震えた。楽器の音と溶け合った声は朗々と響く。それが閼伽の声だと気がついた時、二人は争うようにしてロフトを駆け上がった。
「閼伽！？」
息をのむ。
ロフトの薄暗がりの中で、閼伽はむくりと起き上がりこちらに顔を向けていた。
「…閼伽…なのか…？」
造作は確かに閼伽だ。しかし、その表情は二人が今まで見たことがない。月を浮かべた夜の湖のようだ。そっと近づくと、閼伽は何かを捧げるようにして、細い両腕を差し出した。
桃矢が推し量るようにその腕を見つめ、振り返った。差し出した相手は桃矢ではない。その後ろで立ちすくんでいる雪兎だった。
閼伽が重い声で告げる。
「───音に───雪兎、手を───」
雪がやんだと、わけもなく桃矢は思った。
「閼 伽 ２」 了
ごめんなさい。古いお話のあちらこちらを引っ張ってきているので、分かりずらいと思います。湖に棲む大きなのや、楽器との関わりは、「凍る湖」「沈鐘」「訪問者」で。氷上ヨットは「王の休日」で登場しています。お話も一話でまとまらず、「続く」になってしまいました〜〜。
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